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NHK大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺(ばなし)~」の第2章からは、日本スポーツ界における女子の活躍がクローズアップされます。

その中でも、日本人女性初のオリンピック選手の人見絹枝(菅原小春)の出現が大きな注目を浴びることになります。

110年前に現在のモデル並みの長身

人見絹枝(ひとみ・きぬえ)の身長は170.0㎝で体重は56㎏と記録されています。

スポーツ万能の女子アスリートにふさわしい体型の選手だったということです。

しかし、今の日本人女性の平均身長が158.0㎝と言われていますから、110年以上前の常識では、人見絹枝は驚くほどの長身な女子と見られたのでしょうね。

後にオリンピックに出て、他の外国人女子選手の体型を見て、自分は世界では「普通」だと安堵したとの逸話もあるようです。

ご参考に、現在でも長身と思われている次の女性達も同じ170.0㎝です。

榮倉奈々(女優、モデル)、
江角マキコ(女優、モデル、元バレーボール選手)、
岡田紗佳(モデル、グラビアアイドル、雀士)、
片山萌美(女優、グラビアアイドル)、
黒谷友香(女優、モデル)、
小雪(女優)、
西内まりや(モデル、女優、シンガーソングライター)。

テニスから陸上へ

人見絹枝は1907年の元旦に岡山県御津郡福浜村福成(現・岡山市南区福成)で生まれます。

地元の福浜村立福浜尋常高等小学校尋常科(現・岡山市立福浜小学校)を経て、1920年4月に岡山県高等女学校(現・岡山県立岡山操山高校)に入学します。

ここで始めたテニスで圧倒的な強さを誇り、早くからスポーツ万能ぶりを発揮していました。

16歳のときに陸上を始め、走り高跳びの日本最高記録を出したことから、本格的に陸上の世界に入っていきます。

https://twitter.com/nhk_td_idaten/status/1137600244173217792

二階堂トクヨとの出会い

本格的に陸上競技に取り組もうと思い、17歳で二階堂体操塾(日本女子体育大学の前身)に入学し、塾長の二階堂トクヨ(寺島しのぶ)から直に指導を受けるようになりました。

二階堂体操塾に入学した年の10月には岡山県女子体育大会に出場し、三段跳で10m33の当時世界最高を記録します(現在非公認)。

また、11月には、全日本選手権・陸上競技(明治神宮外苑競技場)に出場し、三段跳で10m38、やり投で26m37を記録しました。

1925年、二階堂体操塾を卒業した後、体操の実技講師として台湾各地を巡回し、帰国後は二階堂体操塾の研修生となりました。

その後も様々な大会で数々の陸上競技を優勝し続けました。

1926年4月に人見は大阪毎日新聞社に入社し、運動課に配属されます。

その年の東京・大阪朝日新聞社主催四大陸上競技大会-第1回女子競技(神宮)に出場し50mは7秒0で優勝、三段跳は10m76でも優勝しました。

日本人女性初のオリンピック・メダリストとなる

優秀な成績が続く人見絹枝は、1928年アムステルダムオリンピックの出場が決まります。

彼女は、女子の個人種目全て(100m、800m、円盤投、走高跳)にエントリーしました。

7月30日の100m予選は1着で通過したものの、同日準決勝は12秒8で4着となり、決勝進出を逃してしまいました。

https://twitter.com/nhk_td_idaten/status/1147747092305207296

8月1日の800m予選を2分26秒2で通過出来ました。

そして、8月2日の800m決勝は2分17秒6でドイツのリナ・ラトケに次ぐ2着となりましたが、人見絹枝は、見事、日本人女性初のオリンピック・メダリスト(銀メダル)となりました。

このオリンピックでの800mの人見の記録2分17秒6は次席でしたが、それまでの世界記録を上回っていました。

8月5日の走高跳の予選にも出場しましたが、残念ながら、1m40で予選落ちとなってしまいました。

燃え尽きた24年の人生

アムステルダルオリンピックの後、人見は競技から一時期離れたこともありました。

しかし、女子のスポーツ参加への応援や資金を得るために、自ら積極的に活動しました。

日本人女性初のオリンピック・メダリストと言うこともあって、世間からの注目が集まった分、講演会など陸上以外の仕事も増え、様々な負担が大きくかかるようになってしまいました。

スケジュール的にも過密だった上、女子選手の成績に対しても厳しい目が向けられて、人見を始めとした選手たちは心身的にかなり辛い思いをしました。

そんな中でも、人見は女子陸上のチャンピオンとして、新聞社の仕事や募金のお礼などを積極的に行いました。

しかし、重なる無理がたたり、人見は1931年3月25日に早朝から喀血し、肋膜炎で阪大病院別館に入院することとなります。

人見はその後に肺炎を併発し8月2日、乾酪性肺炎により、24歳という若さで亡くなってしまいました。

偶然にも、命日はアムステルダムオリンピック800m決勝の日から、ちょうど3年後の日でした。

https://twitter.com/nhk_td_idaten/status/1147836415260155904

人見絹枝は、日本人女性初のオリンピック・メダリストと言うことだけではなく、その後の日本のスポーツにおける女子の地位向上のため、文字通り身を削って貢献した偉大な選手でしたね。

改めてその努力に頭が下がります。

参考資料:人見絹枝の主な記録

国際オリンピック委員会(IOC)が公認する世界記録

[競技:  記録、       年月日、      場所     (備考)]

100m: 12秒2、 1928年5月20日、 大阪
(カナダのクックが同年7月2日に12秒0を出すまで42日間保持)

200m: 24秒7、 1929年5月19日、 神宮
(オランダのシュールマンが1933年8月13日に24秒6を出すまで1546日間保持)

走幅跳: 5m50、 1926年8月28日、 ヨーテボリ(スウェーデン)
(イギリスのガンが翌年8月1日に5m575を出すまで337日間保持 )

走幅跳: 5m98、 1928年5月20日、 大阪
(ドイツのシュルツが1939年7月30日に6m12を出すまで4087日間保持)

未公認世界最高記録

当時国際女子スポーツ連盟(FSFI)FSFIによって世界記録とされたが、現在では国際陸上競技連盟(IAAF)IAAF、国際オリンピック委員会(IOC)共に公認していない参考記録である。

[競技:   記録、       年月日、        場所]

400m: 59秒0、 1928年5月6日、 美吉野 

三段跳: 11m62、 1925年10月17日、 大阪 

現在まで存続していない種目での世界記録

[競技:  記録、     年月日、       場所]

50m: 6秒4、 1927年11月3日、 神宮 

60m: 7秒5、 1929年10月19日、 瀋陽 

立ち幅跳び: 2m61、 1927年5月8日、 神宮 

三種競技: 217点(100m:12秒4、走高跳:1m45、やり投:32m13)、 1929年4月28日、 美吉野 

(ウィキペディア参照)

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