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NHK大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺(ばなし)~」は1932年ロサンゼルスで開催された第10回国際オリンピック大会での日本選手の大活躍のおかげで、オリンピックへの興奮が続いています。

また、東京市会が1931年(昭和6年)に決定した1940年大会に向けての「五輪の招致」活動で国を挙げて、イタリアのムソリニー首相やIOCへの働きかける様子が描かれています。

1935年(昭和10年)にオスロ(ノルウェー)で開催されたIOC総会での会議では、東京、ローマおよびヘルシンキの3候補地の争いとなりました。

この招致活動に外交官でIOC委員の杉村陽太郎(加藤雅也)や伯爵でIOC委員の副島道正(塚本晋也)の奮闘が見ものでした。

しかし、その後の世界の動向により、1936年のベルリンオリンピックが第二次世界大戦前の最後の五輪大会となってしまい、1940年東京オリンピックは「幻」となりました。

「2回目」のベルリンオリンピック

1931年の国際オリンピック委員会で1936年夏季オリンピック大会の開催地をベルリンに決定しました。

実は、ベルリンは1916年のオリンピック開催都市として一度は開催が予定されていたが、第一次世界大戦によって中止となりました。

しかし、1931年にフランスのパリで行われた第11回夏季オリンピックの開催地投票においてベルリンがスペインのバルセロナを破って再び開催地に選ばれました。

投票の結果はベルリンに43票でバルセロナに16票と、圧倒的にベルリンが多くの支持を得ました。

この決定は、第一次世界大戦で敗北して孤立したドイツが、国際社会へ復帰する大きなきっかけになりました。

夏季五輪は開催が取りやめとなった場合でも開催地に選択されたことが「みなし回次」として残るため、1936年のオリンピックは、公式にはベルリンの2度目の開催と記録されています。

「ヒトラーのオリンピック」

このように1931年のIOC委員会は1936年夏季オリンピック大会の開催地をベルリンに決定しました。

しかし、その2年後にナチ党の最高指導者アドルフ・ヒトラーがドイツの首相になりました。

当初オリンピックを「ユダヤ人の祭典」であるとしてベルリン開催に難色を示したヒトラーでした。

しかし、側近から「大きなプロパガンダ効果が期待できる」との説得を受けて、開催することに同意するようになりました。

ところが、ナチ党とヒトラーに対する反感から、1936年ベルリンオリンピックのボイコット運動がアメリカ、イギリス、フランス、スウェーデン、チェコスロバキア、オランダで表面化しました。

多数の国のユダヤ人選手が個人的にベルリンオリンピックをボイコットしました。

しかし、米国のアマチュア体育連盟が1935年12月に参加に賛成投票すると、他の国も同調し、広範なボイコット運動は衰退しました。

49の国と地域が参加

結果的には、これまでのオリンピックより多い49の競技チームが世界中から集まり、1936年のベルリンオリンピックで競争しました。

前回を大きく上回る49の国と地域(独自の国内オリンピック委員会を保有していたアメリカやイギリスのいくつかの植民地)が出場し、その中でもドイツは選手348人の最大のチームを出場させました。

2番目は、18人のアフリカ系アメリカ人を含む312人の米国チームでした。

ソ連は共産主義に反するとの理由でベルリンオリンピックに参加しませんでした。

主な出場国

独立国家:

アルゼンチン、オーストリア、ブラジル、ボリビア、中華民国、チェコスロバキア、エジプト、フランス、イギリス、ドイツ、オランダ、イタリア、日本、ラトビア、メキシコ、ノルウェー、ペルー、南アフリカ連邦、アメリカ合衆国、ユーゴスラビア

植民地:

イギリス領インド帝国、アメリカ領フィリピン、イギリス領バミューダ

第二次大戦前の最後のオリンピック大会

この大会の3年後、1939年9月にドイツによるポーランド侵攻を機に第二次世界大戦が勃発し第12回東京大会と第13回ロンドン大会が中止されたため、この大会が大戦前開催された最後の大会となってしまったのです。

第二次世界大戦の勝者であるイギリスで行われるロンドン大会は、世界大戦終結後の1948年に繰り越されて第14回大会として開催されました。

1940年の東京大会については、日中戦争の激化などにより日本側が開催権を返上していました。

スポーツを通して政治とは無関係に国際交流が行われるのが理想ですが、残念ながら、しばしば、オリンピックに政治が大きな暗い影を落とすことがありますね。

一生懸命練習している選手たちのことを考えると、とても気の毒に思えてしまいます。

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