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NHK大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺(ばなし)~」の第20回「恋の片道切符」では、嘉納治五郎(役所公司)、金栗四三(中村勘九郎)や野口源三郎(永山絢斗)が念願していた1920年(大正9年)のアントワープ(ベルギー)五輪への参加の話が中心でした。

日本チームは陸上や水泳競技では振るわなかったが、見事日本初のメダル獲得をテニスで成し遂げたのでした。

熊谷一弥がテニスシングルスの銀メダルと熊谷一弥・柏尾誠一郎組がテニスダブルスの銀メダルに輝きました。

https://twitter.com/2251_Mai/status/1132609295529308161

「軟式」で始まった日本の庭球

アントワープ五輪で日本人初のオリンピックメダリストの熊谷(一彌)一弥さん(くまがい・いちや、1890年(明治23年)9月10日 – 1968年(昭和43年)8月16日、福岡県大牟田市出身)は旧制宮崎中学(現・宮崎県立宮崎大宮高等学校)で野球部の主将を務めたり、陸上の中距離走でも活躍していました。

しかし、その後、慶應義塾大学部理財科に進学し、そこでは当時日本独特の軟球ゴムボールを使用した「軟式テニス」をプレーしていました。

しかし、1913年(大正2年)に慶應義塾大学テニス部が「硬式テニス(ローンテニス)への転向」を正式に表明したため、熊谷たちは日本で最初に硬式テニスに挑戦することになったのです。

全米3位まで上り詰めた熊谷

元関東テニス協会 常務理事 金田昭彦さんは「いだてん紀行」で熊谷一弥の偉業について解説しています。

1920年、五輪当時では熊谷さんだけは軟式のグリップで、そのまま軟式のスタイルで硬式の試合をやられました。

「テニスが日本に伝わった明治時代、硬式ボールは輸入品しかなく、当時はとても高価なものでした。

そこで安い国産のゴムボールを代用した「軟式テニス」が日本で生まれます。

熊谷は軟式のプレースタイルで大活躍した後、ニューヨークに渡り、銀行員として働きます。

アメリカでもプレーを続け、全米3位まで駆け上がりました。

そして迎えたアントワープ。

金栗たちの苦戦を受け、今までにない緊張の中、試合に臨んだそうです。」

さらに金田さんは続けます。

「この人がいなかったら、日本のテニス界の発展も、テニス人口の増加もなかったでしょう。

そのつながりで、ここまでポピュラーなスポーツになってきたんだと思います。」

1920年アントワープ夏季オリンピック大会の日本選手団

役 員

団長:嘉納治五郎

役員:辰野保

役員:深井健夫

https://twitter.com/nhk_td_idaten/status/1132150565805395971

陸上競技

加賀一郎(明大) 男子100m:1次予選落ち(11秒4)、男子200m:2次予選落ち(23秒8)

山岡慎一(東大) 男子100m:1次予選落ち(記録なし)、男子200m:2次予選落ち(記録なし)

蓮見三郎(日歯) 男子800m:予選失格、男子1500m:1次予選落ち(4分28秒4)

大浦留市(東京高師) 男子5000m:決勝戦で途中失格、男子10000m:棄権

佐野幸之助(松江青年) 男子5000m:予選落ち(16秒30)、男子10000m:予選落ち(34秒3)

斎藤兼吉(東京高師) 男子五種競技:棄権

益田弘(慶大) 男子五種競技:途中棄権

野口源三郎(体協幹事) 男子十種競技:12位(3669.63ポイント)

金栗四三(体協委員) 男子マラソン:16位(2時間48分45秒4)

茂木善作(東京高師) 男子マラソン:20位(2時間51分09秒4)

八島健三(小樽中) 男子マラソン:21位(2時間57分20秒0)

三浦弥平(早大) 男子マラソン:24位(2時間59分37秒0)

競 泳

内田正練(北大) 男子100m自由形:記録不明、男子400m自由形:予選落ち(6分40秒0)

斎藤兼吉(東京高師) 男子100m自由形:記録不明、男子400m自由形:準決勝棄権(6分16秒8)

テニス

柏尾誠一郎★(三井物産) 男子シングルス:3回戦敗退

熊谷一弥(三菱合資) 男子シングルス:銀メダル

柏尾誠一郎・熊谷一弥 男子ダブルス:銀メダル

★柏尾 誠一郎 [かしお・せいいちろう, 1892年1月2日 – 1962年12月16日、大阪府出身、1913年に東京高等商業学校(現一橋大学)卒業] 学生時代からテニス選手として活躍し、三井物産のニューヨーク等の駐在員でした。

数えてみれば、錦織選手らの活躍が期待される東京五輪は熊谷選手、柏尾選手のメダルからちょうど100年絶つことになります。
メダルの重さを感じる事実ですね。

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