平成31年正月からスタートしたNHK大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺(ばなし)~」の第一章の第1回から第13回の「ストックホルム大会」篇が終わり、次は帰国後の「いだてん」こと金栗四三(中村勘九郎)の物語に移ります。
実は、この間、元号は明治から大正へと変わりました。
また、帰国後、四三のオリンピック惨敗への風当たりは想像以上に厳しいものがありました。
https://twitter.com/nhk_td_idaten/status/1137524907636592640
雨降って地固まる
1912年5月5日 から7月27日 まで、スウェーデン・ストックホルムで開催された第5回オリンピック競技大会に初めて参加するアジア国として、日本が出場したのですが、残念な結果となってしまいました。
自分がマラソン中に日射病で倒れ、意識を無くしてレースを断念した翌日の日記に、金栗四三は次のように記しました。
「大敗後の朝を迎う。
終生の遺憾のことで心うずく。
余の一生の最も重大なる記念すべき日になりしに。
しかれども失敗は成功の基にして、また他日その恥をすすぐの時あるべく、雨降って地固まるの日を待つのみ。
人笑わば笑え。
これ日本人の体力の不足を示し、技の未熟を示すものなり。
この重圧を全うすることあたわざりしは、死してなお足らざれども、死は易く、生は難く、その恥をすすぐために、粉骨砕身してマラソンの技を磨き、もって皇国の威をあげん」
どのような気持ちで四三が帰国の途に着いたのかが、良く分かります。
また、帰国するのには船とシベリア鉄道だけでも20日間はかかり、結局日本に着いたのは1912年9月でした。
日本選手団の皆様が帰国を目指してヨーロッパを移動中、日本では、1912年(明治45年)7月30日の明治天皇の崩御と大正天皇の即位により、大正と改元され、その日は、大正元年7月30日となったのでした。
つまり、金栗四三達は、明治45年に日本を出発し、大正元年に帰国したことになったのです。
強靭な肉体を作る
2019年4月14日放送の「いだてん」第14回では、金栗四三が帰国した様子が描かれるようです。
四三は、自分の母校で、選手団々長の嘉納治五郎(役所公司)が校長を務めている東京高等師範学校(後、東京教育大学を経て現在の筑波大学)の寄宿舎で、帰国報告会を行います。
彼の報告に対して、大勢の東京高等師範学校の仲間が健闘を称える中、厳しい意見をぶつける女性が出現します。
その女性とは、永井道明(杉本哲太)の弟子で、東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)助教授の二階堂トクヨ(寺島しのぶ)でありました。
https://twitter.com/kahoku_shimpo/status/1107527555785998336
永井道明と二階堂トクヨはオリンピックでの敗北を受け、娯楽スポーツではなく強靭(きょうじん)な肉体を作る体育の推進を強固に主張するのでした。
トクヨが体育教師になるまで
二階堂トクヨは、明治13年(1880年)12月5日、宮城県志田郡三本木町に産まれます。
最初は地元の三本木小学校准教員をしていましたが、勉強熱心だったトクヨはその後、福島県尋常師範学校へ進みました。
https://twitter.com/bKLDyoOlBXhvj9Y/status/1137925151545102336
さらに、卒業後、上京し、東京女子師範学校への入学を果たして、明治37年(1904年)23歳で卒業しました。
東京女子高等師範学校在学中に「教育」「倫理」「体操」「国語」「地理」「歴史」「漢文」の師範学校女子部、高等女学校の教員免許を取得しました。
卒業後は、石川県立高等女学校(金沢高女)で教鞭を執る事になるのですが、希望していた国語ではなく体育教師を拝命されてしまいます。
しかし、体育を教えているうち、自分の体調の改善を実感し、生徒の評判も良く、次第に自分の体育の教育者としての自覚が生まれたようです。
明治40年(1907年)に高知県師範学校教諭兼舎監に任命されますが、すでに担当する授業の中心が体育でした。
また、トクヨの教育者としての能力が認められ、明治44年(1911年)3月には30歳で東京女子高等師範学校助教授に就任します。
この頃の嘉納治五郎が、日本のオリンピック参加に向けて様々な運動を起こしている様子が、前篇の「いだてん」で描かれていいます。
英国体操専門学校への留学
二階堂トクヨはまた東京女子高等師範学校でも体育指導のリーダーとしての可能性が認められ、スポーツの先進国イギリスへの官費留学が決まり、キングスフィールド体操専門学校(校長マダム・オスターバーグ)で学ぶことになります。
留学中は熱心に勉強し、トクヨはこの環境を最大限活かし、「水泳」「クリケット」「ラクロス」「ホッケー」「ダンス」等を見事に習得しました。
留学生活を終えたトクヨは、大正4年(1915年)4月に帰国し、その年に東京女子高等師範学校教授に就任しました。
私財を投げうって #二階堂体操塾(現・日本女子体育大学) の設立に懸けた #二階堂トクヨ。女子体育の振興に身を捧げる決意の表れとして、頭を剃ってカツラで過ごしていたのは実際のエピソード。のちにトクヨは「女子体育の母」とも称されるようになります。#いだてん pic.twitter.com/SH1cBVVfpt
— 大河ドラマ「いだてん」 (@nhk_td_idaten) June 9, 2019
「二階堂体操塾」を開校
トクヨは帰国後、留学中に覚えたダンスや体操など、様々な形で日本の体育を進めようとしました。
しかし、まだ日本の、特に女子に対する体育教育の考え方との違いが大きく、彼女は悩みました。
「是非、官立の女子体育学校の設立を」と意見書などを通して訴えたのですが、当時の日本での実現は無理でした。
そこで、42歳となっていた二階堂トクヨは、私財を投じて東京代々木に「二階堂体操塾」を開校します。
https://twitter.com/nhk_td_idaten/status/1132557010598354945
「二階堂体操塾」は全国に優れた体育教師を送り出すのと同時に、日本初の女性オリンピックメダリスト人見絹枝(三期生)を始めとする、多くの優れたスポーツ選手を輩出しました。
後に、トクヨの精神を引き継ぎ、二階堂体操塾は現在の日本女子体育大学となり、優秀なスポーツ選手と指導者と世に送り出し続けています。
2019年4月14日の放送から始まる「いだてん」の第二章では、二階堂トクヨを始めとし、スポーツ界の女性の活躍が大きな焦点になるようです。
第一章は「男達」が中心の「東京オリムピック噺(ばなし)」でしたが、これからは続々と躍動する女性達が現れるようです。
楽しみですね。