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NHK大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺(ばなし)~」では、1928年のアムステルダム五輪大会が終わり、記念すべき成果、「メダルは水泳が6つに、陸上が2つ」に岸清一(岩松了)体協会長が喜びました。

そこで、勢いに乗った新聞記者の田畑政治(阿部サダヲ)が次回の1932年ロサンゼルスオリンピックに向けて益々張り切って活動を開始します。

この熱意いと日本チームの努力の結果、1932年ロサンゼルスオリンピックでは日本チームは、特に水泳競技で飛躍的に多くのメダルを獲得しました。

水泳競技のメダリストの中には大河ドラマのいだてんで注目される選手がいます。

男子100m自由形の宮崎康二(西山潤)、男子200m平泳ぎの鶴田義行(大東健介)と小池禮三(前田旺志郎)、や男子400m自由形の大横田勉(林遺都)が含まれています。

そして女子では200m平泳ぎの前畑秀子(上白石萌歌)が銀メダルを獲得しています。

指導者の選任

オリンピックを経験し、勝利するのには選手一人の力では無理。

監督が効率的なトレーニングや勝つための作戦を一緒に考える必要があると悟った田畑は、日本の水泳チームに「革命」を起こします。

先ず、早速1932年ロサンゼルスオリンピックに向けて指導者を選びました。

多少乱暴な選任方法でしたが、総監督に田畑政治、監督に松澤一鶴(皆川猿時)と助監督に野田一雄(三浦貴大)が選ばれて、それぞれは選手を練習法などでサポートする任務に就きました。

「日本泳法」から「手で水をかく」クロールへ

田畑率いる日本水泳チームは、1928年のアムステルダム五輪大会から世界と戦うために泳法の革命を起こし始めていたのです。

第27回いだてん紀行の解説によりますと、日本の水泳は、そもそも武芸に端を発した「日本泳法」が主流でした。

海や川などの自然環境に合わせた、さまざまな泳ぎがあり、水中戦闘や泳力誇示のための泳ぎなど、武士のたしなみとして重んじられていました。

日本泳法・神伝流を現代に伝えている指導者で日本水泳連盟・日本泳法委員の土屋守史さんは、日本の水泳法の変化について説明しています。

日本泳法は、基本的には足を使って体を支える泳ぎ方です。

足を使うことによって、手が自由になります。

しかし、田畑たちはアントワープオリンピックでの大敗を機に、世界の主流だった“手で水をかく”クロールの習得にかじを切ります。

日本の泳法は、しっかり水を後ろに蹴ります。

前方の足で水を踏み、後方の足で水を蹴るので、(クロールの)手の推進と合わせて非常に速い技術が生まれたのではないかと想像できます。

日本古来の強みと新泳法「クロール」を手にし、日本水泳チームは飛躍的にスピードを上げたのでした。

これも一つの日本水泳界の「革命」だったのです。

「見せるスポーツを!」:神宮プールの建設

田畑政治は岸清一体協会長に、日本がもっとスポーツに関心を持ってもらうためには、「これからは見せるスポーツを!」とアメリカとの競泳会を企画し、ロサンゼルスオリンピックの前に弾みをつける作戦を訴えます。

それには専用の施設が必要との求めに岸は賛同し、ポケットマネーとして5000円を拠出し、水泳大国を目指す田畑の悲願だった明治神宮水泳場(神宮プール)が1930年に完成します。

この「革命」に合わせて、プールのこけら落としとなった大会で天才少女・前畑秀子(上白石萌歌)が記録的なタイムを出して、女子水泳界の「革命」が始まります。

現在はフットサル「千駄ヶ谷コート」に生まれ変わり

神宮プールはそれ以後も様々な重要な水泳大会に使われました。有名なのは1948年、ロンドンオリンピック(日本は戦敗国として招待されず)と同時期に開催された日本選手権水泳競技大会があります。

この年の日本選手権水泳競技大会では古橋廣之進が、自由形1500m、並びに同400mで当時の世界記録を大幅に上回る記録を達成したことでも知られている。

その後もプールとして使われましたが、1997年から冬季に限りフットサル競技場として解放するも、施設老朽化ならびに年間5000万円以上の赤字のため2002年に水泳場としては閉鎖・解体されてしまいました。

しかし、2003年に常設のフットサル競技場「千駄ヶ谷コート」として装い新たにオープンしました。

日本が初めてオリンピックに参加してからは多くの「革命」を経てソフト面でもハード面でも変わってきたのですね。

二回目の地元開催となる2020東京五輪大会はどのような「革命」をもたらすのでしょうか。楽しみですね。

 

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