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NHK大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺(ばなし)~」は1936年開催の第11回ベルリンオリンピックが終わり、日本人には忘れることのないドラマがありました。

「前畑頑張れ」の女子200m平泳ぎの前畑 秀子(上白石萌歌)の金メダルを始めとし、日本選手団は6つの種目で優勝しました。

また、1940年に開催予定の第12回国際オリンピック競技大会開催候補地に関する大事な決定がこの年のIOC総会で行われました。

1932年(昭和7年)ロサンゼルスIOC総会

10都市が第12回オリンピック開催地に立候補

日本は昭和となり、東京市会は「五輪の招致」を1931年(昭和6年)決定し、1932年(昭和7年)にロサンゼルスで行われた総会の席上、日本代表の嘉納治五郎(役所公司)と岸清一(岩松了)はIOC会長に対し正式招待状を提出しました。

こうして東京は、ローマ(イタリア)、バルセロナ(スペイン)、ヘルシンキ(フィンランド)、ブダペスト(ハンガリー)、アレクサンドリア(エジプト)、ブエノスアイレス(アルゼンチン)、リオデジャネイロ(ブラジル)、ダブリン(アイルランド)、トロント(カナダ)とともに、1940年開催予定の第12回国際オリンピック競技大会開催候補地として正式立候補したのでした。

1935(昭和10年)オスロIOC総会

当時は、オリンピック開催都市はその5年前の総会で決定するルールであったため、1940年大会の開催地を決定するのは1935年にオスロ(ノルウェー)で開催されたIOC総会でした。

そこで、東京、ローマおよびヘルシンキの3候補地の争いとなりました。

東京開催の障害要因としては「夏季の高温多雨」、「欧米から遠く離れていることによる旅費と時間」などの問題が挙げられました。

東京市は気候については、例えばフランスのマルセイユに比べてもはるかに涼しいと反論しました。

また旅費に関しては、参加希望国当たり100万円の補助を行うこと提案しました。

しかし、東京の申し出を受けて、ローマもヘルシンキも同様の旅費、宿泊費補助案を発表し、招致合戦が一段と激しくなりました。

結局は、1935年にオスロ(ノルウェー)で開催されたIOC総会では結論に至ることが出来ず、翌年開催予定のIOCベルリン総会へ決定を延期することとなりました。

1936(昭和11年)ベルリンIOC総会

結果的には1935年のIOC総会では東京は選ばれませんでしたが、日本は諦めず、当時のIOC会長のアンリ・ド・バイエ=ラトゥールを日本に招待し、大々的に開催地としての適性をアピールしました。

さらに、駄目押しとして、1936年(昭和11年)夏に開かれたIOCベルリン総会で、日本代表として嘉納治五郎が演説を行ない、見事1940年オリンピック開催地に[TOKYO]が選ばれました。

1938年(昭和13年)カイロIOC総会

ベルリン総会では一旦開催地が東京に決定されたものの、その翌年の1937年(昭和12年)には泥沼の日中戦争が本格化し始めます。

また、1940年に東京・横浜に万国博覧会の開催も決まっていて、IOCは同時開催に対する懸念を抱くようになり、1938年(昭和13年)のIOCカイロ(エジプト)総会では東京五輪開催について激しい議論が交わされました。

結果的には嘉納委員が説得し、開催は予定どおり行われることとなりました。

https://twitter.com/nhk_td_idaten/status/1178278287925268480

その総会で心身ともに疲れたこともあり、カイロからの帰国途上の5月4日(横浜到着の2日前)、氷川丸の船内で肺炎により嘉納治五郎は死去してしまいました。

享年77歳でした。

残念ながら、嘉納治五郎の命を削る努力にも関わらず、日中戦争の激化などにより、結局はオリンピック開催権を返上することとなってしまいます。

これが、「幻の東京五輪」の概要です。

歴史的には2020年五輪大会は、第3回目の東京オリンピック開催と数えられるそうです。

1964年が第2回目で、開催されなかったが、第1回目は幻の1940年のオリンピックとなっています。

参考文献:

「1940年幻の東京オリンピック招致アルバム―」再出版

当時のIOC委員向けに、1940年の五輪を東京に招致するために作られたアルバム(英文)が、和訳付で2017年に再出版されました。

『東洋のスポーツの中心地 Tokyo: Sports Center of the Orient 東京-1940年幻の東京オリンピック招致アルバム―』

( \28,080.- (税込)、株式会社極東出版)

紹介文が非常に興味深い内容なので、興味のある方は是非読んでみて下さい。

「1923年(大正12年)9月、関東大震災で東京は未曽有の大災害に見舞われました。その後、世界大恐慌が発生し、日本の大陸への進出が加速、満州国建国、そして国際連盟からの脱退という激動の時代情勢の中にあって、東京市(Tokyo Municipal Office)は1932年(昭和7年)の国際オリンピック委員会(IOC)総会で、オリンピックの開催都市に正式に立候補しました。

当時の東京市長永田秀次郎は震災からの帝都復興と、日本の本当の姿を見てもらおうと企図しましたが、全国的な盛り上がりは見られず、当初は東京市が中心となって招致活動を行いました。その後、柔道の創始者として国際的な知名度があり、IOC委員を務めた嘉納治五郎らの活躍により、1936年(昭和11年)7月のIOC総会にて、アジア初の東京大会開催が決定します。招致活動の一環として、東京市は東京や日本を知ってもらうことを目的に写真アルバムを作成しました。東京の街並み、日本の風景、スポーツ競技場、日本のスポーツや武道などを紹介する写真が収録されています。外国の要人向けに作成されているため、写真のタイトルや解説等は全文英語となっており、東京の招致委員からIOC委員らに配布されました。オリンピック招致の中心的役割を果たした嘉納治五郎も、招致活動の際に自らこの写真アルバムを配布しました。

日中戦争の激化に伴い、1938年(昭和13年)、カイロでのIOC総会では開催が危ぶまれ、その帰国途上で嘉納治五郎が病死するに至り、日本政府は1938年7月に開催権を返上します。ここにアジア初の東京オリンピックは幻に終わりました。

本書は招致活動最初期の、日本初、アジア初のオリンピック招致資料と言える写真アルバムを忠実に再現し、監修者 真田久先生(筑波大学教授)の解説と、英語本文には日本語の翻訳が付いています。オリンピック研究の一級資料であり、研究者はもちろん、大学図書館や公共図書館にもオリンピック教育の良質なテキストとしてお薦めいたします。」

本の内容の詳細は下記のサイトで見られます。

https://www.kyokuto-bk.co.jp/detailpdf/KA2018-01.pdf

 

 

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