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NHK大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺(ばなし)~」の前半は、日本のマラソンの父と言われている金栗四三(中村勘九郎)が、播磨屋(ハリマヤ)の(第10回までピエール瀧が演じていた)黒坂辛作が縫った足袋を履いて、日本人として初めてオリンピックに参加した1912年ストックホルム大会にまつわる物語でした。

https://twitter.com/nhk_td_idaten/status/1124493882245492736

金栗四三と谷口浩美を結ぶハリマヤ

ストックホルム大会から帰国後、金栗は播磨屋に下宿しながら、ハリマヤの足袋をいかにマラソン用に改良できるか、(第14回以降は三宅弘城が演じる)黒坂辛作と試行錯誤する様子が描かれています。

ところで、マラソンに無知な私が驚いたことに、第18回放送の最後の「いだてん紀行」のコーナーで、男子マラソン元日本代表の谷口浩美さん(たにぐち・ひろみ、1960年4月15日~)が現れて、次のように話しました。

「今から40年前ごろは、ハリマヤさんが全国の陸上界で多くのシェアをとっていたんじゃないでしょうか。
私たち選手はただ走ることだけなので、そういう身の回りの技術的なものはお願いするしかありません。
そのお願いを聞いてくれたという播磨屋の黒坂さんはすごいなと思います。」

事実、谷口浩美さんは、ハリマヤシューズを履き、箱根駅伝で3年連続区間賞を取ったことを明かしました。

文京区大塚にマラソンランナーがシューズを求めた

最初は、金栗四三が、1910年代の初めに、黒坂辛作がマラソンのために工夫して作った足袋を履いて走り、「これに勝るものはない」と絶賛したことから始まった金栗足袋でした。

さらに、その後、足袋にゴムソールをつけることで始まったハリマヤシューズは、日本のマラソン選手にとって欠かせないものとなっていったそうです。

残念ながら、ハリマヤシューズは約30年前になくなったようですが、選手と二人三脚の靴作りは黒坂辛作の孫の代まで継承されていました。

「いだてん紀行」で黒坂辛作の孫、與田誠一さんは、

「選手一人一人みんな違いますからね。
走り方も違いますし、靴の硬さも違うもんですから、選手に合った硬さの靴を作って。
いろんな選手がウチに来られました。」と回想しています。

いだてん金栗四三が居候して、黒坂辛作とより良いマラソン用の履物を模索していたのは、ハリマヤ足袋発祥の地、東京都文京区大塚だそうです。

足袋にゴム底をつけたら「靴」になる!

5月12日放送の「いだてん」第18回では、辛作はさかんに、ゴム底を付けたらそれは足袋ではなく、靴になると、幾度も足袋にゴムソールを付けるのを拒みます。

しかし、大正8年、金栗四三が日光から東京までの130キロのレースに挑戦することとなり、辛作は折れてゴムソールの足袋を差し入れることとなりました。

同じコースを学生で構成されたチームは駅伝形式で大勢のリレーで完走しますが、四三は1人で走り続けました。

完走したものの、駅伝形式で走った学生達には負けました。

しかし、喜んだのは播磨屋の辛作でした。

ゴム底の足袋が130キロ走っても擦り切れずに、無事に「完走」出来たからです。

これが、谷口浩美までもが愛用していたハリマヤシューズの始まりといえるでしょう。

足袋職人のマラソンシューズ

ハリマヤシューズが長い間マラソンランナーの間で愛用されていた理由について、スポーツシューズの専門家でハリマシューズに詳しいオリンピアサンワーズ2代目店主の川見充子さんがweb Sportivaのインタビューに答えています。

「ハリマヤはシューズの木型がいいんです。
それはきっと足袋の木型が原型だからです。
足袋は履いたときシワが寄ってしまってはいけない。
足袋職人だった黒坂さんのそうした繊細な木型作りが、日本人の足型に合ったシューズを生んだのだと思います。
足袋から始まって、足袋のようにフィットして、足袋のように軽く、足袋のように薄くと追求していったから、ハリマヤの技術は高かった。
だから私は黒坂さんの足袋が、日本のマラソンシューズの原型なんやと思います」と、足袋職人が作ったマラソンシューズだからこそ多くの日本人選手に支持されていたのではと推測しています。

大河ドラマ「いだてん」で今まで描いてきた明治から大正にかけてのスポーツにまつわる話には、いかにして日本が近代化、西洋化してきたかのヒントがいろいろ隠されているようですね。

東京の秩父宮記念スポーツ博物館に1919年頃の金栗足袋が展示されているそうです。是非、本物を見てみたいと思います。100年前の「マラソンシューズ」を。

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