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NHK大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺(ばなし)~」の第2章も引き続き近代日本におけるスポーツの発展の複雑な道のりとその中心的人物を描くストーリーが多くあります。

物語の最初から大きな存在として、杉本哲太が演じる永井道明とスウェーデン体操があり、その関係が気になります。

https://twitter.com/nhk_td_idaten/status/1089490719700598785

日本スポーツ界のパイオニア

永井道明(ながい・どうめい、明治元年12月18日〔1869年1月30日〕 – 1950年〔昭和25年〕12月13日)は「いだてん」の中の立場は、東京高等師範学校で金栗四三(中村勘九郎)たちの寄宿舎の舎監として登場します。

しばしば東京高等師範学校校長で「日本スポーツの父」と呼ばれる嘉納治五郎(役所公司)と対立する頑固者として描かれています。

しかし、実は永井道明自身も日本におけるスポーツの近代化に大きく貢献した人物だったのです。

ヨーロッパから日本に体操を持ち込んだ日本スポーツ界のパイオニアの一人として評価されているのです。

明治の体操派閥争い

明治30年代の後半、日本の体操にまつわる指導方針が、大きく分けて、普通体操とスウェーデン式体操の二があり、大いに混乱していたそうです。

文部省は、どうにか乱立する体操を整理分類して統廃合を図るため、調査員を任命し報告書を求めたが、それぞれの派閥の対立もあり、結論は出ませんでした。

そこで、文部省は海外の体育を調査するため、留学生の派遣を決定し、当時姫路中学校の「体操校長」と呼ばれていた永井道明が抜擢されました。

永井は中学を退職し、明治38年12月に欧米外遊に出発します。

アメリカ各地を視察した後、ヨーロッパ各国の体育の現場を見学し、特にスウェーデンの王立中央体操練習所でスウェーデン体操を研究しました。

また、明治41年には、滞在していたイギリスでロンドン・オリンピックも視察しています。

永井道明は、明治42年1月に帰国して、東京高等師範学校と東京女子高等師範学校の教授に就任し、日本の体育のリーダーとして活躍しました。

大きな実績として、欧米の視察の結果、永井は普通体操派と軍部が推奨する兵式体操派を説得、スウェーデン式体操を取り入れた妥協案を提案し、受け入れられることになりました。

その成果として、永井道明の主導により、大正2年に日本初の「学校体操教授要目」が制定せれたわけです。

肋木(ろくぼく)とは?

永井道明の日本体育における影響が今でも目に見える形で多くの学校の体育館に残っています。

スウェーデン式体操の補助具の肋木(ろくぼく、Stall Bars, Wall Bars)です。

体育館の壁についている大きな木製の「梯子?」のようなものが、肋木です。

本来の使い道で使われることはほとんどないようですが、これはスウェーデン体操の代表的な補助器具なのです。

肋木について、ウィキペディアによりますと、「高さは2.5 – 2.8メートル、1欄の幅が80 – 100センチメートルのものが一般的で、1欄だけのものから壁一面に設置されているものまで、運動施設によって幅を自由に決めることができる。
懸垂・柔軟・平均運動など補助できる運動が多様で、しかも安価なことから19世紀後半から20世紀初頭にかけスウェーデン体操の流布とともに世界中に広まった。
日本でも多くの学校に設置されており、現在では昇り降り・横への動きなど遊戯器具として使われるのが一般的。
指導者が減っているため、体操器具として使用しているのは器械体操の選手など中級者に多いと考えられる。」とあります。

小学生のころ、「どこにも行けない梯子」としか思わなかったのですが、動画を調べてみますと、凄い体操が出来る道具だと分かりました。

オリンピック競技ではありませんが、専門家の「演技」は見ものです。

今度体育館に行くことがあったら、少し肋木にぶら下がって見ようと思いました。

 

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