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NHK大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺(ばなし)~」の第ニ部が始まり、第一部の金栗四三(中村勘九郎)主役の陸上競技中心のスポーツシーンから、田畑政治(阿部サダヲ)が貢献した水泳競技にまつわるストーリーや選手が目立つようになります。

その中でも、「前畑、ガンバレ!」の前畑秀子(上白石萌歌)の二つのオリンピックでの活躍には特記するものがあります。

ロサンゼルス五輪で獲得した銀メダルに続き、四年後のベルリンオリンピックでは見事、金メダルを手中にしました。

「たった10分の1秒の差で負けてくやしい」

前畑秀子は1932年ロサンゼルス五輪から胸に銀メダルをさげて、めでたく水泳競技生活から卒業する気持ちで帰国に向かいました。

しかし、帰国した途端、東京市(現在の東京都)の永田秀次郎市長(イッセー尾形)や多くの水泳、スポーツファンから「たった10分の1秒の差で負けてくやしい」、「次のベルリンでがんばって」と次回の五輪への挑戦を期待する声に圧倒されました。

そこで、本人は周囲の大きな期待に押され、オリンピアンとして、現役続行を決意しました。

そこで前畑選手は早速、目標に向かって、厳しいトレーニングを開始しました。

1日に2万メートル泳ぎきる猛練習を重ね、その結果、1933年(昭和8年)9月30日には200m平泳ぎの世界新記録を樹立しました。

「金」か「死」かの覚悟

1936年当時は、日に日に政治的、軍事的緊張が高まっていて、世界が戦争に向かって動き出していました。

ベルリンオリンピックでは、国威発揚の期待は4年前のロサンゼルス大会のときより、はるかに高まっていました。

この中で、前畑は強いプレッシャーを感じていて、もう銀メダルではだめ、金メダルでなくては許されない、と思いつめてしまったそうです。

前畑秀子は自叙伝にその時の気持ちを綴っています。

「もし優勝できなかったら死のう、と考えたほどです。

帰りの船から飛び込もうか、いや、私は泳げるから、海では死ねないのではないか、などと本気で考えたのです。」[兵藤(前畑)秀子「勇気、涙、そして愛」]

日本人女性初の五輪金メダリスト

1936年(昭和11年)、ナチス体制下のドイツで開かれたベルリンオリンピックの200m平泳ぎに前畑選手が出場しました。

地元ドイツのマルタ・ゲネンゲルとデッドヒートを繰り広げて、1秒差で見事勝利を収めました。

日本人女性として五輪史上初めてとなる金メダルの獲得でした。

この試合をラジオ中継で実況したNHKの河西三省アナウンサー(トータス松本)は、興奮のあまり途中から「前畑ガンバレ!前畑ガンバレ!」と20回以上も絶叫し、真夜中にラジオ中継を聴いていた当時の日本人を熱狂させました。

今でもその実況は語り草となって、録音が保存されています。

「前畑ガンバレ!前畑ガンバレ!」の声援が有名ですが、本人は文字通り死ぬ覚悟で泳いでいたのですね。

この日本女子初の金メダルの裏には凄い物語があったと感動してしまいます。

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