NHK大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺(ばなし)~」では1932年ロサンゼルスオリンピックでの日本選手の大活躍が注目されます。
水泳チーム総監督の田畑政治(阿部サダヲ)のプールサイドのパーフォーマンスや日本人男子の活躍が目立ちますが、その中でも、日本人女子初の五輪金メダリストの水泳選手、前畑秀子(上白石萌歌)はスーパースターの一人です。
「前畑、ガンバレ!」伝説はここロスから始まります。
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川の天然プールで平泳ぎ覚える
2度もオリンピックに出場し、2度もメダリストとなる歴史的日本人スイマーの前畑秀子[まえはた・ひでこ、1914年(大正3年)5月20日 – 1995年(平成7年)2月24日]は、和歌山県伊都郡橋本町(現・橋本市)出身で、豆腐屋を営む家に生まれました。
小さい時から泳ぎが大好きだった前畑は、1928年に14歳で地元・和歌山県の小学校高等科に進み、川に造った天然のプールに飛び込み、平泳ぎの練習に励んでいました。
ハワイからロサンゼルスへの道のり
1929年、前畑は東京の水泳大会で日本新記録をマークし、ハワイで行われる汎太平洋女子オリンピック大会女子平泳ぎの100m と200mに出場することになりました。
100mで優勝し、200mでは2着に入りました。
この初めての海外遠征を好成績で終えた前畑は、3年後のロサンゼルスオリンピックを意識するようになったそうです。
1929年(昭和4年)。ハワイでの汎太平洋女子オリンピックに出場した日本選手団。左から2番目が前畑秀子さんです。 pic.twitter.com/GTB5h45htr
— 戦前~戦後のレトロ写真 (@oldpicture1900) April 22, 2016
晩年、自叙伝にこのとき、「出れば、ひょっとしたら勝てるかもしれないな」と思うようになったと綴っています(出典:「前畑ガンバレ」兵藤(前畑)秀子)。
その後、前畑は名古屋の椙山高等女学校の3年に編入、そこで厳しい練習を経験し、さらに記録を伸ばします。
しかし、翌年に母を病気で亡くし、その5カ月後に父を亡くすという悲劇に見舞われてしまいます。
当然、この悲しみと練習不足で思うようにタイムが出なくなってしまいました。
しかし、1932年の五輪大会開催の年を迎えると、オリンピックに出場するという強い意志が再び芽生えて、選考会で3年前に自身が出した日本記録とタイとなるタイムで優勝し、みごと代表選手の座を獲得しました。
ロス五輪は日本選手のメダルラッシュ
1932年7月に開幕したロサンゼルス・オリンピックでは、日本チームは大躍進し多くのメダルを獲得しました。
まず陸上競技の三段跳びで南部忠平が金メダル、大島鎌吉が銅メダルを獲得、南部は走り幅跳びで銅メダルも勝ち取りました。
西田修平は棒高跳びで銀メダルを得ました。
競泳では男子100m自由形で宮崎康二(ドラマでは西山潤が演じる)、1500m男子自由形で北川久寿雄、男子100m背泳ぎで清川正二、男子200m平泳ぎで鶴田義行(大東駿介)、そして男子800mリレーの日本チームが金メダルをそれぞれ獲得しました。
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そこで、前畑は天国の母に祈りながら必死で泳ぎ、女子200m平泳ぎをトップ上位にフィニッシュしました。
このとき、3人の選手がほぼ同時にタッチしたように見えましたが、記録では前畑が2着と判定されました。
1位とはたったの10分の1秒の差でした。
しかし、日本記録を6秒も縮めて、見事オリンピック銀メダリストに輝きました。
1932年(昭和7年)。ロス五輪の日本女子選手団。純白に日の丸の国旗が入ったユニフォーム姿です。後列右から4番目の前畑秀子は、この大会の200m平泳ぎで銀メダルを受賞。次のベルリン五輪では見事金を取ります。 pic.twitter.com/bYxs3mq8gt
— 明治・大正・昭和の写真 (@polipofawysu) March 5, 2018
シルバーメダルに不満の「お年より」がいた
胸にオリンピック銀メダルをさげて、意気揚々と帰国した前畑選手でしたが、帰国後には大きなショックを受けることになりました。
その出来事は前述の自叙伝「前畑ガンバレ」に記されています。
「前畑さーん、前畑さんはどこにいるんだ?」という声が聞こえてきました。
見ると、お年よりのりっぱな方が、どうやら私をさがしているようです。
「はい、前畑でございますが」
その方は、穴のあくような目で私の顔を見ました。
「あなたが前畑さんか」
私は、その方が、私の手にした銀メダルを見て、お祝いのことばをのべてくださるのだろうと思っていました。
しかし、その方は、銀メダルには目もくれずに、わたしの顔をじっと見つめています。(中略)
「あなたはなぜ、金メダルをとってこなかったんかね?」
私は、あまりのことに返事もできません。(中略)
「あなたは、たった10分の1秒の差で、2着になってしまったんだろう? なぜ1着になれなかったんかね?」
その声は、まるでおこっているようでした。(中略)
「あなたは日本記録を6秒もちぢめたといいたいんだろう。
でもそのくらいなら、なぜもう10分の1秒ちぢめて、金メダルをとってくれなかったんかね?
わたしはそれがくやしくてくやしくてたまらないんだよ」
私はまた声も出ません。(中略)
「いいか、前畑さん、このくやしさを忘れずに、4年後のベルリンオリンピックではがんばってくれよ」
永田秀次郎(1876~1943)は第8代・第14代東京市長。関東大震災の復興の指揮をとり「復興市長」の異名を取った。東京オリンピックの誘致にも積極的であり、また前畑秀子の支援者でもあった。「青嵐」の俳号を持ち多くの句集を残した風流人でもあった。#いだてん#いだてん東京オリムピック噺 pic.twitter.com/9kTqe6XHzW
— 令和の土星人@8/10Juice=Juice横浜シリイベ (@4568Ts) June 23, 2019
そう言い残して立ち去ったのは、東京市(現在の東京都)の永田秀次郎市長(イッセー尾形)だったのです。
「次のベルリンでがんばって」
前畑秀子自身はロスオリンピックを最後に、競技生活を終えようと思っていたのに、永田秀次郎市長を始めとする「前畑、ガンバレ!次のベルリンでがんばって」の多くの声が彼女に届くようになり、次のベルリン大会に挑戦する意欲が湧いてきました。
また、決め手となったのは、夢の中に出てきた母の言葉だったそうです。
「秀子や、いったんやり始めたことは、どんなに苦しいことがあっても、最後までやりとげなさい」
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というわけで、これからはベルリン・オリンピックへの道のりが始まります。
「前畑、ガンバレ!」と、また言いたくなりますね。