2020年東京オリンピックの前年の今年に、NHK大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺(ばなし)~」(作:宮藤官九郎)がスタートしました。
主人公の日本人初のオリンピック選手となり、「日本のマラソンの父」と呼ばれる金栗四三(中村勘九郎)を始めとして、日本のスポーツ界に貢献した多くの登場人物が描かれています。
その中でも、「日本スポーツの父」と呼ばれる嘉納治五郎(役所公司)の存在が大きいですね。
しかし、今までは、嘉納治五郎の名前を聞けば、「柔道の父」と連想する人が多かったはずです。
実は、「いだてん」の大事な舞台となる1912年にスウェーデン・ストックホルムで開催された第5回オリンピック競技大会以外にも、嘉納治五郎と五輪との深い関係があったのです。
「頭の重い時に強いて調べ物をすることや、疲労した時に徹夜することなどは、人間精力の善養利用には背く道理である。」
嘉納治五郎 pic.twitter.com/JP5N0CMtOd— tube (@syacus) March 27, 2019
先ずは「柔道の父」
多くの人は、嘉納治五郎(かのう じごろう、1860年12月10日(万延元年10月28日) – 1938年(昭和13年)5月4日)を「柔道の父」として覚えた名前だと思います。
事実、1881年(明治14年)に、長年習得してきた柔術の崩しの理論などを確立して独自の「柔道」という競技を新たに作りました。
NHKアーカイブスに「AIで彩る #いだてん の世界」というコーナーを見つけました。明治〜昭和の様子が動画で観られます。大正の浅草の火事では人々が屋根に登っている!(逃げないの?!)そして志ん生師匠の「風呂敷」の一片。10万の男、嘉納治五郎先生が柔道を教える姿も。https://t.co/Lp6KfVoSlA
— 白石加代子広報スタッフ (@hyaku_shiraishi) March 6, 2019
また、1882年(明治15年)には、下谷北稲荷町16(現・東京・台東区東上野5丁目)にある永昌寺の12畳の居間と7畳の書院を道場とし(囲碁・将棋から)段位制を取り入れ、講道館を設立し、多くの弟子を迎え入れました。
「日本スポーツの父」
嘉納治五郎は柔道のみならず、野球を始めとして、様々なスポーツに興味があり、日本のスポーツの普及に熱心でした。
主に、この時期の嘉納治五郎の活躍が「いだてん」で紹介されています。
先ずは1909年(明治42年)に東洋初のIOC(国際オリンピック委員会)委員に選ばれます。
「次は東京で会いましょう!」
日系人たちに笑顔で呼びかけた #嘉納治五郎。底知れぬパワーと人びとの心をつかむカリスマ性は70代になっても健在!
悲願の東京オリンピック実現に向け、精力的に世界中を飛び回ります。#いだてん pic.twitter.com/43REgtPYtW— 大河ドラマ「いだてん」 (@nhk_td_idaten) August 18, 2019
次は、日本がオリンピックに参加する準備として、1911年(明治44年)に大日本体育協会(現・日本スポーツ協会)を設立してその会長となります。
その努力がみのり、1912年(明治45年)に、日本のみならず、アジアの国として五輪大会の初出場となるストックホルムオリンピックの選手団団長として参加しました。
「幻の東京五輪」
嘉納治五郎の国際オリンピック委員会委員の活躍はここで終わりませんでした。
日本は昭和となり、東京市会は「五輪の招致」を1931年(昭和6年)決定し、ローマ(イタリア)とヘルシンキ(フィンランド)の3都市で競いました。
結果的には選ばれませんでしたが、日本は諦めず、当時のIOC会長のアンリ・ド・バイエ=ラトゥールを日本に招待し、大々的に開催地としての適性をアピールしました。
https://twitter.com/nhk_td_idaten/status/1170592636920651776
さらに、駄目押しとして、1936年(昭和11年)夏に開かれたIOCベルリン総会で、日本代表として嘉納治五郎が演説を行ない、見事1940年オリンピック開催地に[TOKYO]が選ばれました。
しかし、その翌年の1937年(昭和12年)には泥沼の日中戦争が本格化し始めます。
また、1940年に東京・横浜に万国博覧会の開催も決まっていて、IOCは同時開催に対する懸念を抱くようになり、1938年(昭和13年)のIOCカイロ(エジプト)総会では東京五輪開催について激しい議論が交わされたそうです。
結果的には嘉納委員が説得し、開催は予定どおり行われることとなりました。
その総会で心身ともに疲れたこともあり、カイロからの帰国途上の5月4日(横浜到着の2日前)、氷川丸の船内で肺炎により死去してしまいました。
享年77歳でした。
その後、残念ながら、嘉納治五郎の最後の努力にも関わらず、日中戦争の激化などにより、結局はオリンピック開催権を返上することとなってしまいます。
これが、「幻の東京五輪」の概要です。
【1940年幻の東京五輪招致アルバムに見る東京の昔と今】九日目は #数寄屋橋
です。1933年頃はまだ数寄屋橋がありましたが、1958年に高速道路の建設に伴い外濠の埋め立てと共に取り壊されました。その奥には旧朝日新聞本社が写っており、当時の様子を知る貴重な一枚となっています。 #幻の東京五輪 pic.twitter.com/QxU7xoc43b— 極東書店「1940年幻の東京オリンピック招致アルバム」 (@kyokuto_tokyo) November 8, 2018
「1940年幻の東京オリンピック招致アルバム―」再出版
当時のIOC委員向けに、1940年の五輪を東京に招致するために作られたアルバム(英文)が、和訳付で2017年に再出版されました。
『東洋のスポーツの中心地 Tokyo: Sports Center of the Orient 東京-1940年幻の東京オリンピック招致アルバム―』
( 28,080円 (税込)、株式会社極東出版)
【1940年幻の東京五輪招致アルバムに見る東京の昔と今】五日目は #日比谷公園 です。カタログの写真と現在の写真を比べると、手前の花壇や左奥の木々などはそのまま残っています。一方でその背景には高層ビルが立ち並んでおり、約80年の年月で変化したもの・しなかったものが見て取れます。 pic.twitter.com/YELhSeVo9S
— 極東書店「1940年幻の東京オリンピック招致アルバム」 (@kyokuto_tokyo) November 2, 2018
紹介文が非常に興味深い内容なので、興味のある方は是非読んでみて下さい。
「1923年(大正12年)9月、関東大震災で東京は未曽有の大災害に見舞われました。その後、世界大恐慌が発生し、日本の大陸への進出が加速、満州国建国、そして国際連盟からの脱退という激動の時代情勢の中にあって、東京市(Tokyo Municipal Office)は1932年(昭和7年)の国際オリンピック委員会(IOC)総会で、オリンピックの開催都市に正式に立候補しました。
当時の東京市長永田秀次郎は震災からの帝都復興と、日本の本当の姿を見てもらおうと企図しましたが、全国的な盛り上がりは見られず、当初は東京市が中心となって招致活動を行いました。その後、柔道の創始者として国際的な知名度があり、IOC委員を務めた嘉納治五郎らの活躍により、1936年(昭和11年)7月のIOC総会にて、アジア初の東京大会開催が決定します。招致活動の一環として、東京市は東京や日本を知ってもらうことを目的に写真アルバムを作成しました。東京の街並み、日本の風景、スポーツ競技場、日本のスポーツや武道などを紹介する写真が収録されています。外国の要人向けに作成されているため、写真のタイトルや解説等は全文英語となっており、東京の招致委員からIOC委員らに配布されました。オリンピック招致の中心的役割を果たした嘉納治五郎も、招致活動の際に自らこの写真アルバムを配布しました。
日中戦争の激化に伴い、1938年(昭和13年)、カイロでのIOC総会では開催が危ぶまれ、その帰国途上で嘉納治五郎が病死するに至り、日本政府は1938年7月に開催権を返上します。ここにアジア初の東京オリンピックは幻に終わりました。
本書は招致活動最初期の、日本初、アジア初のオリンピック招致資料と言える写真アルバムを忠実に再現し、監修者 真田久先生(筑波大学教授)の解説と、英語本文には日本語の翻訳が付いています。オリンピック研究の一級資料であり、研究者はもちろん、大学図書館や公共図書館にもオリンピック教育の良質なテキストとしてお薦めいたします。」
本の内容の詳細は下記のサイトで見ることが出来ます。
https://www.kyokuto-bk.co.jp/detailpdf/KA2018-01.pdf
学校や図書館が購入している場合があると思いますので、是非中身を見てみたいと思います。