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NHK大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺(ばなし)~」の第2章が始まり、前章の舞台となった1912年にストックホルム・オリンピックが終わり、これからの日本のスポーツのあり方、次のオリンピックへ向けての方針など等、様々な課題が山積していました。

その中でも、大日本体育協会(現・日本スポーツ協会)のあり方と財政危機への対応が、日本のスポーツ界に大きくのしかかっていました。

この状況下で、後に日本の「近代スポーツの父」と呼ばれるようになる弁護士の岸清一(岩松了)の奮闘が始まります。

https://twitter.com/nhk_td_idaten/status/1115086886614204416

「岸記念体育会館」の「岸」

日本でスポーツの話題で「岸」という名前が頻繁に出て来るのは、日本スポーツ協会の本部ビルで多くのスポーツ団体の事務所がテナントの「岸記念体育会館(東京都渋谷区神南)」ではないでしょうか。

また、日本史上で「岸」といえば、元総理大臣の岸 信介(きし・のぶすけ、1896年〈明治29年〉11月13日 – 1987年〈昭和62年〉8月7日)を思い浮かぶ人が多いと思います。

この二つの「岸」を結び付けるのは自然かも知れません。

岸記念体育会館(東京渋谷)

しかし、岸記念体育会館は第2代大日本体育協会会長の岸 清一(きし・せいいち、慶応3年7月4日(1867年8月3日) – 1933年(昭和8年)10月29日)を記念して命名されたのでした。

岸 清一は松江雑賀町(現在の島根県松江市雑賀町)に松江藩の下級武士岸伴平の次男として生まれ、後に東京帝国大学法科大学英法科を卒業します。

卒業後は代言人免許を受けますが、1893年(明治26年)に制度改正により弁護士となり、1910年(明治43年)には法学博士となります。

また、この頃から岸 清一は日本のスポーツを大きく変える事業に関わるようになります。

実は、岸清一の遺言により、大日本体育協会に100万円(現在約28億円相当)が寄付されて、それを原資にこの会館は1940年に当初は東京府神田駿河台に建設されたのです。

1964年の東京オリンピックを機に現在の渋谷のロケーションに移転しました。

大日本体育協会設立から参加

「いだてん」の第1章で描かれているように、嘉納 治五郎(役所公司)を原動力として明治43年(1910)に大日本体育協会が立ち上がり、その時から岸清一は設立に参加していました。

「いだてん」の第2章では、第5回ストックホルム・オリンピック後の大正5年(1916年)に岸が大日本体育協会副会長に就任してからの物語が展開することとなります。

大日本弁護士会会長

日本の近代スポーツへの貢献で有名な岸清一ですが、日本の法曹界の権威と呼ばれるような弁護士/法学者で、大正4年(1915年)から昭和8年(1933年)まで、大日本弁護士会の会長を務めました。

また、長年、三菱グループや東京市の顧問弁護士を務め、大きな影響力がありました。

大正10年(1921年)3月に嘉納 治五郎の後継者として、大日本体育協会の第2代会長に就きますと、ますますスポーツへの理解と協力を広めるためにその影響力を発揮します。

スポーツにはお金が必要

嘉納 治五郎を会長として大日本体育協会が設立された当時から、常に資金の問題が日本スポーツには付きものでした。

当時はまだスポーツが人づくりや経済にも貢献するということが周知されておらず、「スポンサー」探しに苦労したそうです。

そこで、岸は自分の政治や大企業への影響力を発揮し、スポーツと社会、スポーツと経済の結び付きに対する理解を広めました。

結果として、次第に国家も企業もスポーツ振興の意義を認識するようになり、日本の近代スポーツが守られ、育つことが出来ました。

終身国際オリンピック委員

岸清一は大日本体育協会の第2代会長に就任した後は、1924年(大正13年)6月 に国際オリンピック委員会(IOC)委員に就任し、1933年(昭和8年)の最期まで勤めました。

さらに、野津謙(後に日本サッカー協会(JFA)会長)と共に大日本蹴球協会(後のJFA)の国際サッカー連盟(FIFA)加盟(1929年)にも尽力しました。

その後は、1932年(昭和7年)のロサンゼルスオリンピックにおいて、岸はIOC委員として大会に参加しています。

「岸記念体育会館」→「ジャパン・スポーツ・オリンピック・スクエア」

日本の近代スポーツの父を記念している原宿駅近くの「岸記念体育会館」が再び移転することとなりました。

2018年11月8日、日本スポーツ協会理事会で岸記念体育会館を2020年東京オリンピックのメイン会場となる新国立競技場の隣接地に移転し「ジャパン・スポーツ・オリンピック・スクエア」と名称を改めることとなりました。

しかし、館内には日本の近代スポーツの父を記念して「岸清一メモリアルルーム」が設けられることが決定しています。

日本のスポーツの誕生には嘉納治五郎の夢を見る熱意、さらに、それを育てるのには岸清一の足が地に着いた熱意も必要だったのですね。

1964年東京オリンピックは勿論ですが、2020年の東京五輪もこの2人の熱意いが無ければ実現できなかったのは確かのようですね。

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