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NHK2019年の大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺(ばなし)~」(作:宮藤官九郎)で金栗四三(中村勘九郎)の後輩、野口源三郎を演じるのは永山絢斗です。

永山絢斗は昨年の大河ドラマ「西郷どん」で大久保利通役を演じた瑛太の実弟でした。

6歳違いのイケメン兄弟

2007年から映画やテレビで活躍を始めた永山絢斗(ながやま けんと、1989年3月7日生 )が「いだてん」でNHK大河ドラマに初出演します。

また、6歳年上で、1999年にデビューした兄の瑛太(本名:永山 瑛太ながやま えいた、1982年12月13日生)は昨年の大河ドラマ「西郷どん」で大久保利通を演じていていました。

二つのドラマが設定されている時代の流れが繋がるように、兄弟の出演が繋がったのは偶然なのでしょうか。

「空腹」に勝てなかった野口源三郎

日本が初めて参加した1912年(明治45年)の第5回国際オリンピック大会の代表選手を決めるために、「オリムピク大會予選競技会」が羽田運動場で1911年(明治44年)に開催されました。

そのとき、金栗四三と共に、野口源三郎(のぐち げんざぶろう、明治21年(1888年)現埼玉県深谷市生)もマラソン競技のスタートラインに立っていました。

野口は東京高等師範学校(後の東京教育大学、現在の筑波大学)で金栗四三の一つ後輩でした。

スポーツ万能ということもあって、当時の東京高等師範学校の嘉納治五郎校長に認められ、25マイル・マラソンに挑戦することになりました。

しかし、野口には少し変わった弱点があり、レースの途中でも空腹になると食べ物が食べたくなって我慢が出来なくなることでした。

このオリンピックの予選会でも途中で中断し、食事をしてしまったため、結果的には順位を4位に下げ、代表権を逃したそうです。

噂によると、途中の「食事」とは、駄菓子屋での盗み食いのことで、店の人にひどく怒られたそうです。

第7回オリンピックの主将

東京高等師範学校を卒業した後、野口源三郎は長野県松本で中学校の先生になります。

そこでも、陸上競技を続け、特に棒高跳びの練習に励みました。

その結果、大正6年(1917年)の日本陸上選手権で、棒高跳びの日本記録を樹立します。

それから野口の能力がどんどんと開花して、夢の五輪大会に出場できることが決まりました。

大正9年(1920年)に開催された第7回オリンピック、アントワープ大会に、十種競技で出場しました。

さらに、その際には、日本選手団の主将を任されました。

オリンピック大会の結果としては12位と残念な結果でしたが、開会式では旗手も務めるなど、野口は名実ともに日本を代表するスポーツ選手となりました。

また、野口源三郎は埼玉県初のオリンピック選手となったのです。

「アメリカ大陸横断マラソン」と箱根駅伝との関係

金栗四三、沢田栄一(明治大学)と野口源三郎の3人が箱根駅伝を創出したことでも知られています。

しかし、そもそも、この話は3人の「アメリカ大陸横断マラソン」という途方もない企画から始まった試みでした。

3人は考えました、アメリカ大陸を横断するとなると、険しい山脈地帯や砂漠の中を走ることとなります。

そこで、アメリカでの決勝戦の参加にふさわしいランナー達の予選として企画されたのが、山道を往復する箱根駅伝となるコースでした。

「アメリカ大陸横断マラソン」の企画そのものが壮大すぎて、スポンサーの問題を克服できませんでしたが、「予選」だったはずの箱根駅伝は、今は世界の駅伝の見本となるような立派なイベントとなっています。

陸上競技の功労者

第7回オリンピック、アントワープ大会後、野口源三郎は各国のスポーツやトレーニング環境を視察勉強し、その経験を生かす教育者として、また監督として大いに日本スポーツ界に貢献しました。

大正10年には大日本体育協会の理事に就任し、大正13年のパリオリンピックでは選手団監督となって参加しました。

教育機関では、東京教育大学教授、埼玉大学教授および体育学部長、順天堂大学教授なども歴任しました。

また前回の昭和39年(1964年)東京オリンピックでは、選手強化本部顧問を務めました。

陸上界からは、昭和8年(1933年)に日本陸上連盟より、初めて功労章を授与しました。

その後、昭和35年(1960年)には「紫綬褒章」、昭和39年(1964年)には、「勲三等瑞宝章」を授与しました。

野口源三郎は昭和42年(1967年)80歳で亡くなるまで、日本のスポーツの発展に大きく貢献された人だと良く分かりました。

この功績が来年の東京オリンピックに繋がるのですね。

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